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第1話 冷たい朝の公爵夫人③

مؤلف: なつめ
last update تاريخ النشر: 2026-06-24 15:07:09

 それはあまりにも唐突で、リュゼリアは一瞬、自分に向けられた言葉だと理解できなかった。

「え……」

「紅を引いても隠しきれていない。無理はするな」

 低い声は変わらず平坦だった。労わる響きがあるわけではない。ただ事実を指摘しているだけにも聞こえる。だが、それでもリュゼリアの胸は不意打ちのように跳ねた。

 見ていてくださったの。

 そんな、あまりにも小さくて惨めな喜びが、痛みより早く浮かび上がってしまう。

「ありがとうございます。でも、大したことはございません。少し、昨夜冷えただけです」

「医師は呼んだのか」

「定期の診察は先日。問題ないと言われました」

 嘘ではない。ただ、本当に問題がないのかは自分でもわからなかった。診察のたび、原因のはっきりしない疲労と貧血だと言われ、滋養のあるものを摂るよう勧められるばかりだ。身体の内側で何かが少しずつ擦り減っているような感覚だけが、説明されないまま残っている。

 ヴィルレオはそれ以上追及しなかった。

「そうか」

 そしてまた食事に戻る。

 たったそれだけのやりとりだった。けれどリュゼリアは、その短さの中に自分が反応しすぎたことを恥じた。頬が熱くなる。朝の冷えた空気には似合わない熱だった。

 なんて情けないのだろう。

 ほんの一言、顔色が悪いと指摘されただけで、心が揺れてしまうなんて。

 愛されていないと、もうわかっているはずなのに。

 朝食を終えるころには、彼は再び書類へ意識を戻していた。リュゼリアはパンを半分も食べられなかったが、残す量を目立たせないよう、スープの皿と配置を少し変えて誤魔化した。

 食堂を出る際、ヴィルレオが立ち上がった。

「旦那様」

 呼び止めるつもりはなかったのに、喉から声が出ていた。

 彼が振り返る。光を受けた瞳は淡く鋼色に見えた。

「なんだ」

 言葉が続かない。

 本当は何を言いたかったのか、自分でもわからなかった。お気をつけて。今夜は何時ごろに。お戻りになったら温かいお茶を。それとも、ただ名前を呼びたかっただけかもしれない。

 わずかな沈黙ののち、リュゼリアは唇に微笑みをつくった。

「……いいえ。どうか、お忙しい一日をご無事に」

「ああ」

 それだけを残して、ヴィルレオは去っていく。裾の長い上着が翻り、磨かれた床を靴音が規則正しく遠ざかる。その背中はいつも通り広く、頼もしく、そして少しもこちらを振り返らなかった。

 リュゼリアは食堂の中央にひとり残され、そっと指先を握った。さっきまで温かかったスープの湯気はすでに消えていた。

     ◇

 午前の執務室は、紙と蝋とインクの匂いで満ちていた。

 公爵夫人用の小執務室は本棟の南側にあり、窓からは冬枯れの庭園が見下ろせる。噴水は止水され、白い石像の肩には薄く霜が残っていた。枝だけになった薔薇の株が整然と並ぶ景色は寂しいはずなのに、リュゼリアは嫌いではなかった。花がない季節の庭には、飾りではない静けさがある。

 机の上には各部署から上がってきた報告書、春の茶会に関する見積もり、領地の孤児院支援の予算書、繕い物の請求書、厨房と洗濯部屋の人員表。どれも細かく、地味で、ひとつひとつは誰の目にも華やかには映らない仕事だ。

 だが、屋敷というものは、こうした細部の上にしか成り立たない。

「東の倉庫ですが、昨年より使用量が増えております。暖房用の薪の補充を前倒ししたぶんかと」

 執事補佐のクラウスが、帳簿を広げたまま説明する。細身の男で、几帳面な性格が眼鏡の奥の目元によく出ている。

「北棟の客室は先月も利用がございましたね。壁炉を焚いた記録は?」

「はい、こちらに」

 帳簿へ指を滑らせながら、リュゼリアは差異の理由をひとつずつ確認していく。言葉は穏やかでも、見るべきところは見逃さない。必要なところには小さく印をつけ、無駄な出費には代替案を添える。

 クラウスは最初こそ、若い公爵夫人にここまで細かな話がわかるのかと訝しんでいた。けれど、いまでは説明も端的になり、誤魔化しもなくなった。それは信頼というより、彼女に中途半端な報告は通用しないと学習した結果だろう。

「孤児院への冬衣料ですが、今回から布地を少し厚くしてください。昨年、子どもたちの指先が霜焼けになっていると報告がありました」

「予算が……」

「茶会の装花を、中央ホールだけ少し簡素にすれば差額で賄えます。薔薇を温室から多く出す必要はありません。季節の枝ものを生かしたほうが品も出ます」

 クラウスが一瞬迷ったあと、頷く。

「承知いたしました」

 彼が退出したあと、アイダが温めた紅茶を差し出した。薄い磁器のカップから、茶葉と柑橘の香りが立ちのぼる。リュゼリアは礼を言って口をつけた。舌に触れた熱が心地よい。けれど二口目で喉に違和感が走り、咳を堪えるためにカップを置いた。

「奥様」

 アイダが低く呼ぶ。

「大丈夫よ」

「今朝から二度目です」

「聞こえていたのね」

「三度でございます」

 そう言われて、リュゼリアは少しだけ笑った。隠したつもりでも、この人の前では意味がない。

「あなたには敵わないわ」

「勝ち負けではございません。お医者をもう一度お呼びしましょう」

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